よひらひらひら

自分だけの句を日記代わりに。

こんなブログ見つけた

  ☆    風花や運動場に朝礼台     


  これは、『俳句朝日読者俳句』(平成八年)の特選句で、選者は川崎展宏氏。氏はこの句に対し、次のように評しておられます。


     「現在の学校ではなく、作者の心にある学校だろうか。教師も生徒も、句には
     一人も出て来ない。それが句の空間を広くしている。一句を読み終えて改めて      
     風花がきらきらと見え、切ない」
  
さらに氏は総評として、


     「俳句も詩歌の一つだから心に訴えて来なければならない。しかし、俳句はくど
     くど述べて訴えるものではない。物を通して読み手が感得するといった形式
      の詩なのである。
      特選の句は、『風花』『運動場』『朝礼台』と二つの助詞だけからなり、一見
      ぶっきらぼうな句だ。だが、そこから見えてくるのは、詠みなれ、使いなれた
     のではない、切ないまでにきらきらした『風花』なのである。
      『朝礼台』が効いている。ぽつんとある感じだ。さらに朝礼台の『朝』が風花
      にひびいている。朝礼台という、やや古々しい言葉が、この場合、実に効果
      的なのだ。
      実際は嘱目の句かもしれないが『心にある学校か』と読み手の想像力を刺
      激するのである」


  さすが展宏氏。おそらく他の選者なら「佳作」にも採らない、いや採れないでしょう。なにしろ、三つの名詞と二つの助詞しかない素っ気ない句なのですから。
  けれども、この句を一気に読み下してみてください。調べに破綻がありません。作者の季語に対する感動がいい加減なものであると、必ずどこかに隙が生じて、腰が折れているものです。
  この句は、何回口ずさんでみても、その隙を感じさせません。作者の心が十分にこもっていないと、なかなかこれだけの句にはなりません。
  季語(風花)に対する作者の思いが深いから、そのままさらさらと詠んで句になるのです。心が浅いと、かえって、いろいろ表現を無理にこね上げ、味のないものにしてしまうのです。
  この句は、「淡々と物を描いて、あとは読者の想像に任せるのが賢明」という、よい見本だと思います。


> 驚いた。本当に驚いた。
私の句が、「俳句朝日」で川崎展宏さんの特選になり大変に嬉しかったことは良く憶えている。
1ページをさいてこの句の鑑賞をして下さったことも良く憶えている。
その「俳句朝日」の本が無くしてしまい、残念と思っていた。


その句がある人の古いブログに書かれていたとは今の今までしらなかった。
自分の名前を ネット で検索をしていて偶然見つけた驚き。
ネットは怖い反面にこんな喜びも与えてくれるのだ。


私が俳句人生で後悔をしていることがある。
なぜか、展宏氏は私の俳句を「俳句朝日」の中でたびたびというより毎月、選に採っていただいた。かなり良い成績で採っていただいた。
展宏氏の結社にも属していない。
普通、選者は自分の結社の誌友を大事にする。
そんな選を「身内選」と陰ではささやく。所謂 贔屓の引き倒し  、、と云う。
1 + 1 = 2  でないのが俳句。
その先生が良いといえば、算数のような答えが出ないのが俳句である。
だから、結社にも属しない、お目にかかったこともない展宏氏とは、相性が良かったのか、いつも選をしていただきまこと、喜ばしかった。
そんな時期に俳句に愛想をつかして、俳句から遠うざかった。
後二なって何回か、展宏氏 の結社に入門をして 俳句を辞めないで続ければよかったのにと考えた。
そのことが今でも悔やまれるのである。


なんという、今夜の偶然。
良かった。私の句を取り上げ、ブログに残して下さった「 T氏 」
本当に有難うございます。心より感謝をいたします。




ひとひらの朴の花びら 、、、、

        


    🐢    ひとひらの朴の花びら拾ひけり                
 
     hitohira no hô no hanabira hiroikeri                  Hanako
 
                season word: hô no hana / Japanese magnolia
 
 
   🐢   one petal
       of Japanese magnolia
       picked up


英語に翻訳をされた句。


麦の秋

  



      

     ☆    黒い穂もなまめき立てり麦の秋    小林一茶


>麦の秋、竹の秋 このような俳諧味のある季語は 作っていて楽しいし又郷愁を感じる季語でもある。
麦秋(ばくしゅう)と発すると 原節子 の古い映画を思い出す人も多いのではないかしら。
うす緑の麦畑にポツン ポツンと黒い穂が見える。
なまめいて見えるというのは色彩感覚として解る気もするそんな一茶の句である。


    🐢    麦笛のはなし黒穂を見ぬはなし

躑躅

            


    ☆    死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり   臼田亜波


> 人生を達観した作者か?
躑躅のこの文字から髑髏なるものをイメージした。
並べて見てみるとほどほどの似ている。
この朱色のつつじは最近では余り見かけなくなった。五月、つつじも交配された新しい品種が出て来て盆栽や庭を飾っている。
自然淘汰されてゆくのが人間世界でも植物の世界でも同じ。
とみに体力な無くなった私は、この句がぐっと心に訴えてくる。
燃え切ろうとした最後の色、そう有終の美を感じとれる。


    🎏    良く吠える番犬つつじ咲く山家

夏帽子

    


    ☆    徳島のはな子とわかる夏帽子    藤田あけ烏


この、はな子は不肖私のこと。
先生と二度目にお会いをした時に詠んでいただいた。


みんな夢になった昔のこと。
先生も鬼籍に入ってしまわれた。


この帽子は昔、私が染めた藍の布で作った世界に一つの帽子。
昨日2~3時間で縫いあげた。


    ★    夏帽子お散歩ですかと知らぬ人


昨日作った帽子をかぶり今日は早速、小一時間山の辺の道を散策した。
その間出あったのは声をかけてくれたこの人と犬二匹、青鷺二羽、カラスが三羽。
それと野良猫とにらめっこ。