よひらひらひら

自分だけの句を日記代わりに。

さくらんぼ  雑感   

     


    🍒     茎右往左往菓子器のさくらんぼ    高浜虚子


ご近のを散歩をしていると塀ごしにさくらんぼの実が熟れているのが見えた。
つやつやと瑞々しい実が熟れて美味しそうである。


    🍒    チェーホフに談義のおよぶ桜桃忌   N


>  チェーホフと桜桃はつきすぎ。(桜の園)に思いを馳せているようだ?、、、、だからどうした?ありふれた類想以前、ありふれた使い回しをされた言葉ではないか。
さすがに今の私だと詠まないだろう。


虚子の句は 桜桃を見て、茎のありどころ 付きどころをみごとに云い得ている。
琉璃の器にのせている 桜桃が鮮やかに眼前に浮かぶ。


    🍒    さくらんぼ茎の立たるものつまむ


> それがどうした?
彼女のファンなら、また、この句を「歳時記」に取り上げ載せた方は、良い句だと受けとったのだろう。しかし当たり前を当たり前に云っただけ。この句のどこに詩情があるか疑問に思う。 (お亡くなりになった有名俳人)


当たり前を詠むときは 「ああ!それに、そんなことに私達気が付かった」よくぞ気がついたね。理屈ぬきに良い句に仕上がった。そんな当たり前でなければならないのだ。


この つまむ の句は私は評価できない。


    🍒    白靴に拭いかくせぬ傷のあり    N


> それがどうした? (5 7 5) にはなっている。句の体をなしている。
拭いても拭いても元の白い靴に戻らない。そんな訳を具体的に詠めば?
単なる嘆き、説明の句にすぎない。


Nがついた句は 私の25年くらい前の句。
俳誌が出てきて、その誌に選をされていた。
今もこんな句から成長をしていないから、全没から抜け出せないのである。
俳句って奧が深くいいや、簡単なところが難しい。